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中国アコーディオン事情(下)
この記事の前半はJAAの5月号に載せて頂き、日本語で書くことが苦手の私に周りの方々から「興味津々に読んだよ」とのお言葉を頂き、大変嬉しく感じました。文章を多少細かくしすぎて、長いと感じられるかもしれませんが、皆さんに伝えたいことをそのまま「記録」し、文字と写真を一つにして「形」にした次第でございます。残念ながら、この当時は数ヶ月間「SARS」の大騒ぎで、いつものにぎやかなアコの響きが聞こえなくなっていたようです。幸い日本はこの災難に巻き込まれなくて、よかったです。
○親が「決意」で、子供が「熱意」と「圧意」?
今回は、記事の後半と言っても、主な内容は前回掲載させて頂きました。
私がこの間取材しました北京と上海は場所は違いますが、状況は共通している部分が多いです。
まずアコーディオン人口が多いのと、大人より子供の生徒が多いことです。
それは多分「一人っ子」政策と関係あるかもしれません。
一人っ子だからこそ、出来るだけ自分の子供にとにかく何かの「特技」を身に付けさせようという親心ではないでしょうか。今の10代から20代の子供の親は丁度「文化大革命」の為、青春を無駄にし、現代文明社会の生きている人たちにとって「食料品」と同じくらい必要である「教育」と縁がなく、自分たちの「天然教養不足」の人生を子供に送らせたくないという気持ちを持っているのではないかと感じます。
今の中国では、こどもを出費の多い「重点学校」や授業料と質両方とも高い日本のような塾に行かせる親が多いようです。その上、子供に音楽や、美術など、いわゆる特技をやらせるのもブームになっているようです。今回私は上海の「徐匯区少年宮」を見学に行ってきました。
この区は、昔は「上層階級」の住む地域と知られており、優秀な子供が割りと多いようでしが、今ではその影響がどれぐらい残っているかはわかりません。北京と同じくアコーディオン人口は子供が中心となっているので、アコーディオン学校や、教室、センターなどの活動はほぼ土日だけ運営しているケースが多いです。
また、上海の少年宮も北京と同じく芸術、音楽関係のクラスほぼ揃っていて、土日になると「親子祭り」と言えるぐらい、毎週にぎやかで、朝から晩まで続きます。それは親の「熱意」か、子供の熱意か判断が難しいようです。多分親が「決意」で、子供が「熱意」と「圧意」(親からの圧力?)半々ではないでしょうか?上海では、アマチュア向きのアコーディオン学校や、センターでも、大抵、大学の音楽科卒業、または3年制の大学の音楽科のアコーディオン専攻科を卒業しなければ教えることが出来きません。それによって、ある程度の教育水準を保つことが出来ます。
今回「徐匯区少年宮」を熱心に案内してくださいましたアコーディオンクラスの担当徐先生も教育に熱意を凄く感じました。生徒を教えながら自分自身の「充電」することも強く意識していることが氏のお話のかなから流れています。また、教え方法や、テキストなども結構研究しているようです。割と、プロ意識を持ってアマチュア生徒を育っていると感じました。
○中国のアコーディオン人口は20万?2,000万?
上海と北京違う所は、生徒が使っている楽器のメーカーです。
話しによりますと、学校や、センターごとに先生が各自のルートで楽器を紹介しているようです。
私は中国のアコーディオン年生産台数はどれぐらいですかと尋ねたところ、中国で主なアコーディオンメーカーがいくつかありますが、天津にある「鸚鵡」(中国語ではインウと言います)メーカーのアコーディオン工場だけで、年産5万台と言われました。
また日本で、「中国でアコーディオン人口はどれぐらいですか?」とよく聞かれますが、それを正確に答えするのが、「中国の人口は?」と似たような感じですね。「人口は12億」と公式なデーターがありますが、実際それは「アバウト」な数字であるとも言われています。
では、アコ人口はあるデーターによりますと約20万人だそうです。
(2000万人という話しも聞いたことがありましたが、それは個人的にありえない数字と思います。)
中国では音楽を習っている人口の50%はピアノだそうです、アコーディオンの比率は2位で、20%だそうです。
○中国のアコーディオンの歴史〜ロシアの奏者との接点〜
 さて、このコーナーを借りて中国アコーディオン歴史を日本の皆さんに少々紹介させていただきます。
単にアコーディオンと言う楽器の歴史を述べると、中国の「笙」までさかのぼってしまう記録が多いようです。更に笙という楽器を追跡すると中国「黄帝」時代、約紀元前2500年ほど前に探ってしまうのです。
それはアコーディオンの「元」だと書かれた記録があるですが、どうもそれは個人的にそこまでのぼる必要があるかなあと時々思います。アコーディオンの愛好者として私は、「笙」を記念するより、
ベルリンのブッシュマン氏(1822年ハントエオリーネ Handaoline と呼ばれた楽器を発明)とウィーンのダミアン氏(1829年アコーディオンという名称を付けられた楽器を発明)に感謝しています。
他の管絃楽器を見ても、どうも西洋文化から生まれた楽器が東洋文化から生まれた楽器より合理性が高い、
且つ音色が綺麗と個人的にそう思っています。そう言っちゃいけない?
では、中国にアコーディオン入ってきたのが1926年ごろと記載されてあります。
「笙」と「親子」再会したのが随分遅かったようですね。でも、今中国のアコーディオン人口が他の国よりはるかに多いようです。最初ごろアコーディオンは珍しいコレクションとして、子供の御土産や、人に喜ばせるために使われたり、または商売の人が人の注意を取るための「武器」として使われたり、当時は教材と教える先生はなかったようです。
1939年第二次世界大戦勃発後、多くのロシア人が中国の東北地方に避難しにきて、
その中に数多くアコーディオン奏者と教える先生が来たため、
中国の人々がプロレベルアコーディオン演奏を聴くことが出来、
またその奏者たちが中国の各地で演奏しながら教えの方も勤めました。
やがて中国のプロアコーディオン奏者も育ってきました。
○「文化大革命」とアコーディオン〜国の文化というものはその国の「国情」と親密に繋がっている〜
1950年以後、中国の人民解放軍が中国のアコーディオンの界の発展に大きな影響を与えました。
当時数多くの軍の「文工団」という演奏団体があって、
民衆の文化生活を豊かにするために、各地で沢山の演奏活動を行われました。
ピアノの代わりにアコーディオンを使って、少なく人数の管弦楽器奏者と組合せばどこでも演奏会を開かれる。
勿論、国の文化というものはその国の「国情」と親密に繋がっているではないでしょうか。
中国ではアコーディオン全盛時代でも言える時期がありました。
それは延べ10年以上、中国の歴史にも最も記録するべきである「文化大革命」時期でした。
革命の時期ですから「革命の音楽」以外には全部禁止され、殆どの外国音楽が「革命」音楽ではないと指摘された為、「洋」楽器はやることがなくなった時期もありました。
しかしアコーディオンは中国の民族楽器以外に「革命歌曲」に一番「適任」楽器として使われるようになった。(やはり笙と「血の繋がり」があるから?)
当時、すべて演奏グループを「**毛沢東思想宣伝隊」と名付けられ、要するに、歌でも、踊りでも、楽器演奏でもすべて毛沢東の「思想」の枠にしなければならない、またそれを賛美、宣伝しなければなりませんでした。
○上海ではじめてのアコーディオンコンテスト
アコーディオンは持ち運びやすい、音量もあって、どこでも、すぐ歌や、踊りなどを伴奏できる特徴があるため、日本の「のど自慢」番組ではないですが、一時期中国の舞台にアコーディオンは「レギュラー」メンバーとなりました。やがて、アコーディオンはだんだん人々に親しまれ、憧れるようになりました。
また各地でアコーディオンクラスや、講習会など、またプロの音楽団体や、市民の音楽グループ、青少年文化センターなどでもアコーディオンの響きがよく聞こえるようになりました。
こうしてアコーディオン人口も徐々に増え、1971年に上海初めてアコーディオンコンテストが開かれ、
課題曲や、自由曲は大体中国の民族音楽を編曲したものと、中国の作曲家が書かれた作品でした。
優勝した人の演奏を上海市のラジオ放送局に放送され、それは「文化大革命」始めてから数年間を渡って初めてアコーディオンのソロを放送したため、大反響を起こしました。
○先駆者、宋興元先生のこと
一時期中国で主流となった「音楽」は「毛主席語録歌」(毛沢東の言葉を歌にしたもの)、と「京劇」でした。
その京劇を「氾濫」した理由は、毛沢東は京劇の大ファンであって、当時の妻である江青(ジャンチン)を文化芸術部門のトップにし、またその分野に「革命」の「屠刀」を舞った。
長期間に渡って沢山の文化人所謂「知識分子」をもとの「席」から外され、農村に行かされるかもとの勤め先に監禁されるか、毎日重い肉体労働をさせ、トイレ掃除も日常仕事のひとつでした。精神的、肉体的ともひどい迫害されました。その中に心に一番ショックを受けたのが、当時上海ラジオ放送局に所属している中国のトップアコーディオン奏者である宋興元先生が、そのような恥辱を受けることに耐えられなくなり、
監禁されていたところで布団のカバーを使って天井に吊って自殺しました、、、
私はその方の曲集本を使ってやって来たのに、、、
宋興元先生は中国の短いアコーディオンの歴史の中に最も重要な役を果たした先駆者であります。
当時南方は上海と広州など、北方は北京と天津地方に活躍していた中国の初代アコーディオンプロ奏者の中に、彼のような演奏レベルのサウンドを聴いたことはなかった、、、
それから数年後、彼の息子である宋国強氏があまりにもアコーディオンが上手であったため、当時上海交響楽団の総監督が人材をキープするためにもあったように、例外的に彼をファゴット奏者として採用しました。一時いい話題として「業界」中に流れました。
○張国平氏と「打虎上山」
話しを戻しますが、その江青「皇太后」の「功績」のお陰(?)で、結局9億の「男女老少」(老若男女)の「鑑賞」出来るものはほぼ「京劇」だけでした。ピアノのほか、バイオリン、オーボエなど、イタリア発声法を学んだ声楽科出身の歌手でも関係なく、すべて音を出せる楽器は全部京劇を弾くことになり、作、編曲者達の仕事も大変でした。
伝統的な京劇と違って、もともと数人だけの京劇伴奏者にフールオーケストラを加え、
サウンド的にはかなり面白いと感じました。
単なる音楽的な視点から言うと「斬新なスタイル京劇」を作り出したとも言えますが、
必要があるかどうかは当時だれも言えませんでした。
アコーディオンもそれの「お陰で」、大ブレイクしました。
それは前期JAAの機関紙に皆さんに紹介しました、北京にある中央ラジオ放送局芸術団のアコーディオン演奏家張国平氏が、京劇「智取威虎山」から編曲されたアコーディオンソロ曲「打虎上山」で1983年にデビューしました。曲のストーリは、主人公が一人で敵がいる山地へ向う途中、一匹の虎を殺し、
任務に自身満々で歌っている姿を表現するテンポの速い間奏曲です。
横のメロディーは京劇のままで、立ての方は西洋和声理論で編曲し、さらに蛇腹シェイクを使い、絶妙な一品でした。更にその演奏が全国にラジオ放送されたため、張国平氏とアコーディオンその楽器の知名度が一気に爆発的に上がりました。
○組織的な活動も活発に
それと同時にアコーディオン団体の組織的な活動も活発的になりました。1980年中国アコーディオン愛好者協会が北京で成立し、第一届主席は姜杰氏でした。
1984年中国アコーディオン教師協会が成立、1987年中国第一回全国少年アコーディオンコンクールを四川音楽院で開かれ、出場者数は150名を超えました。
1988年御喜美江さんをお招き、天津音楽院で講習会&コンサートを開かれました。
1990年、中国アコーディオン愛好者協会と中国アコーディオン教師協会を新しく中国アコーディオン協会にし、現在の会員数は7,000人を超え、中国では最大のアコーディオン組織となっています。
また、数多くの大学、芸術学校、音楽院、専門学校にアコーディオン科を設けられています。
ある資料によりますと、全国で約20ヶ所普通大学、9ヶ所音楽大学、6ヶ所芸術学院、また数多く音楽学校や、芸術センターなどの教育機関にアコーディオン科が設けられています。
中国でプロアコーディオン演奏団体も少なくないです。
特に各地の大都市の「歌舞劇団」やオペラハウスにアコーディオンを使われています。
○友好の心を込めた一つ一つの「音」を
中国はこの数年間政治、経済、文化など大きな変化が続き、いままでにない姿勢で「外部世界」と足並みにしょうという新しい時代感を感じられ、また、「外国文化」を客観的に、現実的に受け入れなければならないことも認めるようとしているではないでしょうか。
「近隣同士」の日本と中国は今の世界状況を見ても、次の世代のことを考えても、友好交流をもっともっとさせるべきではないでしょうか。アコーディオンはそんな「威力」と「音量」はないですが、でも友好の心を込めた一つ一つ「音」を鳴らし続けばこの地球上の平和の響きが大きくなるではないでしょうか。
アコーディオン分野は音楽の畑のなかにおいてただひとつの小さいコーナーですが、国境なく、すべてのアコーディオン愛好者、またすべての音楽を愛する人々の力を合せて、アコーディオンの普及ため、そして日中友好交流の発展ため、力を尽くして頑張っていきたいです。
皆様、よろしくお願いいたします。
謝々!!!